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青汁のおいたち
以下は、遠藤青汁の会発行の「健康と青汁」に遠藤博士がご出稿された「青汁のおいたち」です。
まさに青汁のルーツともいえますのでご一読下さい。
まえがき
かねがね青汁の会の同志をものから、青汁のおいたちといったものを書いたら、といわれていたが、私は、まだその時期でない。そういうものは死ぬまえに書くものだ、などと冗談をいって澄ましていた。
ところが、お膝元の一青汁業者(もと私どもの会の仲間であったが、好ましくない行為がたび重なるので除名された)が、青汁の創始者は自分だ、とうそぶいているという噂を聞いた。(そういうことがあったので、早く書け、ともいわれていたのであろう)。もとよりこれは歯牙にかけるまでもないので、ただ一笑に附ていた。
が、こんどは、人間医学社の大浦氏が、「大法輪」という月刊誌の十月号に、「青汁回生法」というのを載せられたが、その中で、青汁のはじまりについて、思いちがいされているらしいことを書かれていられるので、不本意ながら、どうしても真相を誌しておかねばならぬことになった。ただし、詳しいことは、とてもにわかには書きかねるので、ここにあらましだけにとどめる。
生葉汁は昔からあった
さて、そのまえに、ちょっと述べておきたいことは生葉の汁の応用は決して新しいことではないということである。拙著「緑葉食・青汁の話」の附録に載せておるように、搗汁、擣汁、杵汁などという名称で、医心方という今から約950年も前に出た現存の日本最古の医書(丹波康頼撰)にもかなり出ているし、漢医方の集大成である本草綱目(明の李時珍著)には、驚く程沢山の例がのせてある。
このように、生葉の汁は昔からあり(おそちく盛に)応用されていたもの、と思われるが、いつの間にか忘れられていた。それを、最近になって、また思い出して応用し、現在の知識で出来る範囲の科学的説明をした、というまでのことで、決して何も新しい発明でも発見でもない。
生菜果汁療法とのちがい
ただし、私のいう「青汁」は、これまでいわれていた「野菜果物汁療法」とはちがう。このことも大事なことなので、ついでに申し上げておきたい。
今から3、40年まえ、西洋では「生(菜果〕食療法」ということが大変流行した。
生の野菜や果物を治療的に応用したもので、色々の病気に、すぐれた効果が認められた。もとはそのまま食べたのだが、やがて、汁にすることもはじめられ、「液状菜食」として賞用された。戦後はいって来たハウザー食も、それである。
しかし、これらは、すべて、野菜や果物を「なま」のまま食べるというだけで、別に材料については注文はつけていない。(大浦氏や西氏その他の民間療法家のいわれていた生食療法も同じ)。 けれども、私のいうのは「縁の葉」でなければならない。
「いき」のよい緑の葉(草でも木の葉でもよろしい)をうんと食い、しかも、なるべく生で食べよう(緑葉食)、また、汁にしても飲もう(青汁、ほんとうに青い汁)というのである。
そして材料は、ただ緑の葉であれば何でもよいのではなく、なるべくビタミンの多い、そして吸収されやすいカルシウムにも富んでいるもの、と限定きれているのであって、これ(質のよい緑の葉に限られていること)が、これまでの生(野菜果物)食、あるいは生(菜果)汁とは根本的にちがうところである。
栄養の完全化
なぜかと申せば、私の緑葉食、青汁の第一のねらいが栄養の完全化にあるからである。
拙著にも、また本紙にもたびたび述べているようにこれまでの私どもの習慣食には、熱量は充分であり、蛋白質もさまで不足はしていないが、それらに釣り合わねばならぬミネラル(ことにカルシウム)やビタミン類は、ひどく不足している。
そのために、私どもの体格、体質が劣り、健康状態はすぐれず、早く老衰するようになっている。
この欠陥をなおすには、ビタミン類や、吸収されやすいカルシウムに富む緑葉類に越したものはなく、その生食ほど大切なものはないのであって、青汁はそれを可能にする最も簡便な方法なのである。つまり、緑葉食は.私どもの栄養を完全にする一方便であり、責汁は、実行しにくい緑葉食を容易にする一方便である。
生きた力
しかし、緑葉の生食(青汁)の効用は、決してそれだけに止るものではない。
生の緑葉のビタミンやミネラルは、それが、ただ豊富にあるだけではなくて、主きた形、つまり「酵素」として存在する。この酵素は、体内の代謝に触媒としてはたらく大切な成分で、いわば生命のもとである。(しかし、巷間に売出されている所謂「○○酵素」といわれているものとは全く別のもの)。 その他葉緑素をはじめ、数多くの有効成分(科学的に知られているものもあれば、まだ知られていないものも沢山あると想像される)がある。
そこで、緑葉の生食(青汁)には、栄養の完全になることと、これら多数の要素との綜合効果が期待されるわけで(これが「生きた力」というものであろう)、これが青汁の著しい、時には神効ともいうべき程の効果をあらわすもとであろうと考えられる。
青汁のおいたち
さて、この青汁がいかにして思い出されたかの本論にはいるが、その遠い間接の原因は、私の抱いていた「栄養学への疑問」であり近い直接の原因は、戦時中の「食糧難」であった。
栄養学への疑問 私どもが教えられた栄養学は、熱量はいくらいる、蛋白質はいくら、それも、なるべく良質の動物性でなければならぬ、というのであったから、どうしても御馳走をしっかり食べねばならぬことになる。 ところで一方、昔から、このような「美食飽食は多病短命のもと」だといい、反対に、とても栄養がとれそうにもない「粗食少食は健康長寿のもと」だといわれている。
野菜や果物の大切なこと、とくに、その生食のよいことはよく承知していた。
また、応召中姫路の陸軍病院で読んだ、官入先生の「食べ方問題」、「続食べ方問題」で、第一次世界大戦で、祖国を飢餓から救った丁抹のヒントヘーデの菜食政策や、肉や穀物が増配されてもよくならなかった健康状態が、ジャガイモによって目立ってよくなったというドイツのペルグの経験も読んだ。
そして、病人の特配には肉や魚よりは、むしろ、野菜をすすめるようにしていたものだが、それでもまだ、どうしても、その理由が充分満足には納得できずにいた。 こうして、この矛盾した事実は、私にとって実にながい間解決できぬ問題であった。
食糧難
戦局は日に日に苛烈となり、食糧の窮乏はいよいよ甚しくなった。
いかにしてこれを切りぬけるかは、闇買するだけの力のない私には、まことに切実な課題としてのしかかり、四六時中脳裡を去ることはなかった。
緑の葉!
その時、ふと。それは忘れもせぬ、昭和18年10月20日の朝、便所の中でのことであった。
「ああそうだ。ある、ある!葉だ、緑の葉だ!野菜の葉が、野草の葉が、樹木の葉が、いくらでも、無尽蔵にそこいらにあるではないか!」
緑葉末油煉
当時私は伏見の桃山に住んでいた。長岡越中という所でその昔、長岡越中の守の邸があった所だそうだ。 あたりは一面の大根畠。畠には大根葉が沢山切り捨ててある。その日から家内も、坊主も、私も、その葉を拾い集めた。(まるで乞食に見えたことだろう。けれども、私どもにしてみれば、一本の大根が三家庭に分けて配給される、といったきびしい食糧難の時節に、これほどすぐれた食糧が、顧みられないままで捨てられているのは、余りにも勿体なくもあり、また慨かわしくもあった)。
熱湯にちょっと浸して乾燥し、田舎から持って来ていた石臼で粉にした。大根葉だけではない。甘藷の業、里芋の葉、大豆の葉、陰元豆の葉、南京豆の葉、蕗の葉、牛蒡の葉、茄子の葉、樫の葉まで、およそ手に入るものは何でも利用した。
ちょっと妙り、油を浸みこますと、仲々おいしい。からだの調子もよろしい。緑葉末油煉と名づけた。
一ヶ月経ったものを、大阪市立生活科学研究所で調べてもらったら、ビタミンCがかなり残っていた。
これは面白い思いつきだと盛に吹聴した。病院(大阪市外守口の大阪女子医専附属病院)では、内科の諸君が、「遠藤教授提娼、新栄養食糧「緑葉末油煉」の作り方」というガリ刷をつくって、配布してくれた。
新聞社へも報らせた。大阪新聞がとりあげて記事にしたので、かなりの問い合せがあり、わざわざ見に来た人もあった。
町内の廃物利用展に出品して賞められれたのも愉快な思い出だ。
緑葉の優秀性
文献はいろいろ漁ってみた。
そして、その年の大晦日の夜半(この日私は当面で病院に泊っていた)、マツカラム氏著の「栄養新説」が、ついに私の多年の疑問を解いてくれた。
そこには、緑葉の優秀性、ミネラルやビタミン類が豊富にあるばかりではない。蛋白質も非常にすぐれており、動物のそれに匹敵するものであること、所謂養護食品の随一であり、他の.不完全な食品の欠陥を補う能力の著しいこと、などが書かれてあった。
ようやく求めていたものに行きあたったわけである。
野菜でよいのは結局緑葉だけで、それに比べれば、他の野菜も果物もずっと劣っていること、「野菜がよい」という成績は、すべて「緑葉」での実験の結果であること、しかも、同じ緑葉でも、色の淡いものは駄目であり、色は濃くてもホウレン草はカルシウムが利用されぬから、これも余りよくないこと、また緑葉はそれ自体が栄養的に完全な食品であるだけでなく、その豊富なビタミンやミネラルによって栄養素の体内利用をよくするため、熱量や蛋白質の必要量が節約されることもわかった。
だから野菜(緑葉)を充分に食べれば(即ち粗食すれば)少食ですむわけだしそれだけに健康でもあり、長生きも出来る筈である。そして、反対に美食では、うんと食べねばからだがもたず、それだけに健康を損ねやすく、なが持ちもしにくい理由もよく納得できた。
つまり、栄養学が科学したところが、ながい経験から知られた事実と全く一致した。「これでよいのだ。これこそ絶対に間違いのない真理だ!」と私は雀躍りした。
これまで、一口に野菜・果物といっていたのがいけなかったのだ.「野菜」とだけいえば、誰れでも、食べよい軟いものを食べようとする。たとえば大根では根だけたべて葉は捨ててしまう。ここをはっきりさせなかった所に、今までの誤りの因があったのだ。
ともかく葉だ。緑の葉だ。どうでも色の濃い質のよい菜っ葉でなければならぬ。
ここまで来れば、次の一とび・・・同じことなら「なま」で、といって仲々充分には食べられぬから、いっそのこと汁にでもして飲もう(そうすれば楽に大量の野菜が食べられるわけ)、という所まで発展するのは当然であり、またいとも簡単なことである。
青汁への飛躍
昭和19年の春、家内が腎臓炎でねこみ、中学へ進んだばかりの坊主が風邪をこじらせて肺炎になった。 家の横の空地にミツバのみずみずしい若葉がおい繁っているのを見かけた時、「こいつを汁にしよう」と考え、すぐに飲ませた。
手伝に来てくれていた看護婦の戸石君(当時内科の主任。今は和歌山県御坊市在住)が、「これをですか?」と、いかにもけげん相な顔をして、擂鉢でゴシゴシやっていた姿は、今もありありと目に浮ぷ。
毎日1〜2合づつ飲ませて、肺炎は極めて順調に経過し、間もなく通学できるようになった。
これが、私の青汁患者第一号である。
次で、家内も飲み出した。 それまでも随分大量の菜っ葉を食べてはいたが、その上に飲んだ小松菜(菜園につくっていた)の青汁がとてもよかったようだ。これも、毎日欠かさず1〜2合、多い時は3合以上も飲んだであろう。やがて治った。これが第二号。(この間の家内の食べ方は、芋類小麦粉などを主食とし、大量の緑葉菜を添えた無塩食で、この経験は、後の私の緑葉食の概念の発展に大きな影響を与え、また、その基本となったものである)
病院では、以前から毎週一席雑誌の抄読会をやっていた。緑葉食については、かねてから話していたが、ある日「青汁の活用は、病人食に不足しがちなビタミンやミネラルの補給法として最適なものと思う、と子供や家内のことを物語ったことから、病院での青汁熱は急にたかまり、多くの貴いまた素晴しい経験が次々に得られた。
そこで、これまでの経験を次の三つの論文にまとめた。
その第一は「緑葉食油煉」(昭和20、1)これは「戦時医学」に掲載された。
第二は「緑葉の利用に就て」(昭和20、2)で、邦食の改善には緑葉の利用にまさるものはないことを強調した。「綜合医学」に出ている。
そして第三は「緑葉療法」(昭和20、3)これには病人食を合理化に完全にするためには、原則として、主食に対し約3倍の縁葉が必要であること。常に若干量は生食すべきこと、生鮮緑葉の生食がこの療法の眼目であり、多量である程よいこと、最少限100瓦を「搾り汁」として用うべきこと、少量の油を入れて青臭味が減り飲み易くなること、などが記されている。この論文はガリ版刷として少数の知人に配布しただけで、ついに発表の機会を得ず、いまだに机の引出しの底にねむっている。
その頃の呼び名は、私の家では「青汁」(これは家内がつけた)、病院ではドイツ語のグリン・ザフト(緑の汁)が通称であったが、その他「青汁」、「草汁」、「すり餌」などとまちまちであった。
なお材料には、清浄野菜はないので、一般の野菜、野草、樹葉などいろいろとり集め、出来るだけ丁寧に洗って使っていた。参考までに、上記「緑葉療法」にある一節を掲げてみよう。
「勿論、伝染病、寄生虫感染の危険を考慮しなけれまならぬ。生産方面に於ける然るべき措置、或は適当なる消毒法が望ましいが、差しあたり糞便汚染の懼れなき山野の緑葉を用いることも一策であらう」。
倉敷轉勤
倉敷へ転勤したのは昭和20年の3月下旬。
話のあった時、院長に、「私は妙なことをやりますよ」と承認ずみであったから、青汁は私の表着板。患者ごとにすすめてみた。しかし、ここでは、大阪とはちょっと様子がちがっていた。
何分にも、牛や山羊のまねをしろ、というのであるから、余りにも奇矯と思われたのであろう。小馬鹿にして仲々素直にはうけ入れてもらえぬ。実行したのは2〜3の結核患者位のものであった。今のようなよい薬のなかった当時のことだから、所謂「藁でもつかむ」といった心理からだったのであろう。
けれども、やっと落つきかけた5月の初、3度目の赤紙が来て、まもなく応召してしまった。
駐屯地で
私の配属された部隊は、平均年令42才という老人部隊で、病人が多いのであるが、支給されている医薬は戦闘にならねば手をつけるわけに行かない。町の薬屋には、もう、ろくなものは残っていない。
幸い山の中であったから短日草や木の葉を採って来させ、青汁をつくって飲ませた。(相当多量なので民家の餅搗臼で搗いてつくった) 兵隊には、私のいいつけは天皇陛下の御命令なのだから、ぐずぐずはいわぬ。真面目に飲むから面白い程の効果が出る。(地方人から、薬草を食っている兵隊と評判されたほどである)
伝え聞いて、地方の人たちももらいに来た。そして家でつくって飲む人もだんだんふえた。学校や婦人会や部落会などから頼まれて講演もした。
こうして、9月下旬帰還するまでの経験は、とてもよそでは得られぬものであったと思う。(この意味で召集になったことは大変なプラスであっこというべきであろう)。
駐屯地は熊本県の人吉であったから、あの地方には、当時のことをまだ憶えていられる人も少くないと思う。
終戦時の誓い
やがて終戦。敗色は日に日に濃くなってはいたが、それでも尚、本土作戦に最後の勝利を信じさせられていた私たちにとって、これ程悲しいことはなかった。
しかし、今度こそは、どうしても死なねばなるまいと覚悟していただけに、この時ほど嬉しいことはなかった。
その喜びが大きかっただけに、大陸に、南方に、また広島に、非業の最後を遂げた多くの戦友の無念さを思うにつけ、生き残った私どもに課せられた責任の、いかに重大であるかを思わずにはいられなかった。
この惨憺たる敗戦の原因は何であろうか。資源の乏しさもあったろう。科学の遅れもあったであろう。けれどさらに大きい、より根本的のものはわが国民全体の身体的、精神的頽廃−不健康ではなかっただろうか しかもそれは国民栄養の過誤に由来しているのだ。真の健康なくしては、ほんとうの日本再建はあり得ない。何は措いても先ず栄養の改善だ。そして、その唯一の途はこれだ!.日本を救うものは緑葉食、青汁のほかにない。この普及は死ぬべくして生きることを許きれた私に与えられた使命ではないだろうか。そうだ。これがためにすべてを捧げよう!と、静まりかえった医務室で、独り心に誓ったことであった。
毛唐どもに威張り散らされるのはいかにも口惜しい奴等の顔は見るのも嫌だ。病院はやめて田舎の山の中にでも閉じ籠ろう。小屋がけでも穴居でもよい。そして病人を救うことから始めよう、などとも考えた。
敗戦にあたっての私の感傷といえばそれまでだが、実際真剣にそう思い、そう決心した。そして、帰還後辞職を申出たが、橋本先生のおすすめにより、これを撤回し、病院にあってその実行を期することにした。
帰院後
実験 すぐやったことは、昭和20年11月から12月の2カ月に亘り、動物性食品は一切これを除き、穀、芋、豆類を主食とし(高々配給米二合三勺に相当する)、緑葉菜を充分(900瓦)に添えた食餌による減食試験であった。
これは、それまでの多くの減食実験が、いずれも従来の習慣食によったものであった(そして熱量1500カロリー以下では障碍を招くと結論されていた)のに対し、私の緑棄食と比較してみるのが目的であった。 この試験で私は、1700〜1500カロリー程度の食餌で、秋の最繁期の田園作業(少くとも3000カロリーはいるとされている)を2遇間、その後1500〜2000程度で(1200といえば米300瓦、葉菜900、食塩という食餌である)、日常診療業務に従事したが、体重減少(開始時55キロ、最低47キロ病院の人たちには随分心配をかけたようであったが)をみただけで、気分はいたってよく、仕事の能率は却って上るという好成績を得た。
またその後に行った穀肉食(昭和21年12月)と穀菜食(昭和22年2月)の比較実験でも、さらに緑葉食、青汁の優秀性に自信を得ることができた。
調査 一般の食習についても調査しておく必要を感じたので、当時は医員も多く(復員した若い軍医が沢山来ていた)、病院は比較的ひまであったのを幸い、外来患者の一人一人について、詳しい食習の調査をした。
そして予想通り、野菜ことに葉菜類の摂取の少いこと、従ってミネラルやビタミンの不足の甚しいことを明かにすることが出来た。
古醫方の青汁
かたわら、わが民間療法(冨士川博士著民間薬その他)や古医書(医心方、本草綱目)にあらわれた青汁(内用例のみ)について調査し、同三書及び水戸烈公の「食薬」などから緑葉食の例をあつめた(昭22)。これらは後に拙著「緑葉食青汁の話」に収録した。
病院の研究会 昭和21年4月の倉敷中央病院研究会で特別講演(恒例により着任早々やる筈であったが応召でのびていた)として「緑葉食について」という題下に、緑葉食青汁の理論と実際について、それまでに得た経験をもとにして発表した。
この稿は同年9月発行の「最新医学」に掲載された。その中に「青汁」という項があるが、これはおそらく「青汁」という言葉が医学文献にのった最初であろうと思う。
これを見て第一に共鳴して来られたのが人間医学社の大浦氏である。
氏はもとの阪大教授片瀬博士の酸塩基平衡学説の遵奉者で、つとに菜食ことに生菜食療法を唱導されていたので、この「青汁」には特に興味をもたれたらしく、大いに協力してやりたいからどしどし投稿して欲しいとの申出がそえてあった。 「一人でも多くの人に」 というかねての念願から、私は喜んでそのもとめに応じ、「健康食に就て」という稿が同年末から翌々23年の夏まで、145回に亘って掲載されたのを手始めに、次々と緑葉食や青汁についての稿を送った。前記「古医方に現われた青汁」も送った。
たしか昭和24年春だったと記憶しているが、大浦氏が人間医学社から、「青汁療法」というガリ版の冊子を出されているが、その第一頁「由来」の項に、「青汁療法は古く昔からあったもので(中略)内用外用ともに民間では値物の緑葉汁を用いる習慣があった。
青汁療法の名称は、倉敷中央病院内科医長の遠藤仁郎博士の命名である。旬刊人間医学には殆んど毎号遠藤博士の研究報告が連載されている云々」とあるのは、その当時の、事情をよく伝えているが、実際それからの人間民学は青汁誌の観があったし、いまもそうである。
〜順次掲載予定です〜
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